僭越ながら【1テーマの本を30冊読んで勉強するブログ】

毎朝3:00からを独学の時間にしています。テーマを決めて本を30冊読んで勉強し、その勉強メモをこのブログに記録しています。自己紹介はサイドバーにあります♪ 2017/3/1から「ミニマリストの本30冊から実践できるコツを書き出し、毎日少しずつ真似してみる!」企画を始めました。 毎日、ミニマリストになるためのコツを、ひとつ実践するのが目標です!

子供の愛し方がわからなくなった時に読む、子供の愛し方『実例集』

☆子育ての本をたくさん読んで、気になる情報をメモするブログを始めました☆
子育ての本をたくさん読む!ブログ

理想の母親像、父親像ってありますか?

私は、子供にあたたかい想い出を残せる親になりたいな〜。
将来子供に「昔、お母さんがあんなことしてくれて、嬉しかったなぁ。。。」なんて思ってほしい。

でも具体的に何をしてあげれば、将来娘がそう思ってくれるかわからない。
自分にお母さんのあったかい想い出があまりないからかもしれません(T^T)
うちの母は私にあまり興味がなかった上に、諸事情で母と離れて暮らした年月も長くて。

子供を愛するって具体的にはどういうことなのかな?
子供に何をしてあげればよいのかな?

そんなときに参考になるのが...これ!
5ちゃんねる error 3001
2ちゃんねるのスレッドなのですが、すごく感動するんですよ〜。泣きます(T0T)

ここに書き込まれたエピソードは全て「子供の愛し方」の実例だと思いました。

この中に出てくるコメント。

いい話で、涙鼻水がとまりません。
私は親からの愛情を感じることが少なかったため、愛のある親子たちは
どういう毎日を過ごしているのかがわからず、
子とどう接すればいいのだろうと漠然と思いながら子育てをしていたけれど、
ここに書かれてあること、こういうことをしてあげると
親に愛されてるって実感してもらえるんだなって
参考になります。

同感!

子供の愛し方がわからなくなる人、もしかしたら、私以外にもいるんじゃないかな〜。
私は、このスレッドに書き込まれているエピソードをみて、真似してみようと思いました。


2ちゃんねるって過去のものは見れなくなっちゃう場合あるよね?!そうなったらもったいなさすぎるので、コピペさせてもらいます。。。

もう永久保存版にしたい。
『親にされて嬉しかったことを語る』って本出たら私買うよー。


めちゃくちゃ長いので、お暇な時間に読んでください。。。
本当に長いです。。。
すんごく長いよー(゜д゜;)
スクロールする指が痛くなる程、長いよー(゜д゜;)


それではスタート。

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完母で育てられたけど、飲料としてガブガブ飲んでたのはいつまでかは覚えてないけど、
ごくたまーに甘えとして幼稚園くらいまでおっぱいを欲しがっていた。
母と2人だけの時に「おっぱいちょうだい」と甘えて言うと、
「おっぱい出ないよー」と言われながらも与えてくれた。
おっぱいの出る出ないはどうでもよくて(出なくてもいいと実際母に言っていた)、
「今はお母さん独り占め!」「お母さんに断られなかった!うれしい」という気持ちで
おっぱいをくれたこと=自分を受け入れてくれたこととして
すごく嬉しかったことを記憶している。

小学校入学直後のある日、なんか具合が悪く、そう訴えた。
相手は両親じゃなく、私に甘かった父方の祖母。
しかし「何?しんどいん?(額に手を当てて)熱ないやん」で面倒くさそうに放置。
学校に行きたくなくて仮病を使ったと思われたらしい。
どうしても辛くて、母(厳しくてあまり甘えられなかった)に訴えた。
同じように額に手を当てたが、「熱はないね。良かった」と言ってから、優しく「どこが痛い?お医者さんに行く?」と訊いてくれ、珍しく抱っこで病院に連れて行ってくれた。
細い小さな身体で、小柄とはいえ6歳児を抱っこ。楽ではなかったと思う。
それが数年に及ぶ闘病生活の始まりだったけれど、あの優しさがあったから、お母さんの言うことを聞いて元気になると決めた。

私が母になり1か月。
この子を信用し、この子が辛いときに優しい母になろうと思う。

小さい頃、母がフェルトで動物マスコットを作ってくれた。
うさぎやクマなど。
それがすごく好きだったので、今もフェルトで小物を作るのが好き。
娘にも小さい物を作ってあげようと思っている。

私が17歳の時。3月3日雛祭りに、今日は女の子の日だよおめでと!ってご馳走を色々作ってくれた。母子家庭だったから働き詰めのお母さん。しんどいはずなのに。すごく嬉しかったの覚えてる。

学校から帰ってきたら、セーターが出来上がっていたこと。
機械編みだけど。一日中やっていたのだろうな。

寝る時に襟元をポンポンしてもらう事
背中を大きくさすってもらう事

小学生くらいまで、母が寝るとき手をつないでいてくれたことかな。
背中トントンはちょうど寝そうな時に止められるから、あとちょっとなのにーと思っていた。

小学校2、3年の頃、母が私の容姿をバカにするようなことを言った。
母は冗談のつもりだったのだけど、私はすごく悲しくて
思わず泣くと、母と妹が泣いている私の真似をし笑った。
本当に悔しかったけど、どうする事もできなくて泣いていると
隣でずっと黙っていた父が、
「冗談でもやっていいことと悪い事がある!」と母を叱った。
母は父に叱られて、初めて自分のした事が悪い事だと自覚した
みたいで、それ以降、私をそういう風にからかうことはなくなった。
父は子育てには口を出さない人だったし、父と母の関係は良かったので、
私は母と父は常に同じ意見だと思ってた。
だから父が母ではなく私に味方してくれたことが本当に嬉しかった。

小学三年のとき、ちょっとしたいじめみたいなののターゲットにされて、凹んで帰った。
めずらしく話を聞いてくれた。
気にすんなって、いつもは作ってくれない(兄があんまり好きではなかったから)サンドイッチを作ってくれた。女は難しいよ、とボソッとアドバイス。
母は実親に捨てられて(経済的な理由らしい)、育ての親にもちゃんと療育されてなくて、複雑な子供時代を過ごし、結婚した父は浮気借金とろくでもない男。兄はとても可愛かったらしく、愛情が兄にあるのをいつも感じて寂しかった。
今でも不公平感のある関係だけど、あの時は本当に救われた。
少しは私のことも愛してくれてるのかな。

私が 小学生の時
おねしょして モジモジしてたら、隣に寝てる母が
おねしょをした 私の布団と母の布団を取り替えてくれた。
夜中に母が、私のおねしょで濡れた布団に、バスタオル引いて 寝てた(ノ△T)

申し訳ないのと、嬉しかったのが、忘れられない

真冬の寒い日、氷みたいに冷たい私の足を一緒に寝てた母が自分の足に挟んで寝てくれた。
あったかかったなぁ

私は小学校低学年ぐらいまで精神的に凄く不安定な子供だったんだと思う。
安心するんで母の胸をさわったり、度々夜は母の布団に潜り込みに行ってた。
嬉しかった事はそれらが一度も拒否されなかった事。
気持ち悪かっただろうし、うざったい時もあっただろうにと思うと本当に当時の母には頭が上がらない。
それから少しずつ自立していって、無事に親離れができたのはあのおかげだったんだろうなー、と思ってる。

父が亡くなった母の話をしてくれた時は本当に嬉しかった。

幼稚園年長の時、母の日の贈り物として園でお母さんの似顔絵を描いた。
あまりお絵描きをしたことがなく、人の顔を描くのは初めてだったので
うまく描けた自信がなかった。
それでも母に渡すと、にっこり笑って母の顔の横に掲げて
「こんなにそっくり」と言ってくれて嬉しかった。

お弁当が本当に美味しかった。
茶色弁当の子も多かった時代なのに、赤緑黄の三色が必ず揃ってた。
卵焼きも、甘い卵焼きだったり、だし巻きだったり、カニかま入りだったり、
バラエティ豊かだった。
ジャガイモと人参の金平や山芋に煮っ転がしは今でも大好物。
二口コンロで調理台もない台所だったのに、よくあれだけ作れたものだと感心する。

不二家のパーラーに母と一緒に行ったこと。
母は土日も休めないフルタイムの兼業で保育園に学童に塾三昧にと接触の少ない私は気難しい子供で、
たまに親子の時間が取れてもぎこちない関係だった。
パーラーではイチゴやバナナやチョコがトッピングされたワッフルを食べて
ナイフとフォークで食べるデザートが嬉しくておいしくてお喋りをいっぱいしてずっと笑い通しだった。
母もその時のことを良く覚えてて、たまにふたりで思い出してはいまだに話せること。
共有できる良い思い出があるのは本当にいいね。

無口な父だったけど、毎晩「今日は、何か変わったことあったか」と私に聞いた。
子供の頃は、遊んだ内容を得意になって話した。
思春期のころは話すのが面倒だったりもしたけど、こんな授業あったとか、部活のこととか何かは必ず話した。嬉しそうに聞いてくれた。
父は私のことを気にかけてくれているという自信、安心感と、静かな嬉しさが心に根付いてた。

教育関係が一番感謝。
3歳からピアノを習わせてくれて小学校では大抵伴奏係だった。四谷大塚でガチに勉強やらせてくれて良かった。

毎週末、夏は海冬はスキーにと父に連れて行ってもらえた事。母は自宅で祖父介護、レジャーには必ず父の彼女が同伴だったのが問題だが、色々な所へ連れて行ってもらえて楽しかった。

・2こ下に妹おります
「お姉ちゃんだから我慢を」って言わなかったと思う
・小学校は月1で参観日があった
フルタイムなのに6年間皆勤だったことめちゃ嬉しかった
でも母はおでぶさんのTHEおばちゃん!だったので見た目を気にするお年頃な中学生になってからは参観日のプリントすら渡さなかった…
・料理が上手だった
よく蒸しパン作ってくれた
私は料理下手なんだよね…ごめん息子よw

誕生日やクリスマスプレゼントには、品物に本を一冊つけてくれた。
裕福な家ではなかったから、おもちゃも嬉しかったけど
本が好きになったお陰で、国語には全く苦労しないで済んだ。
子どもの本も結構高いと、大人になって感謝。

やっぱり、風邪をひいて学校を休んだ時の手厚い看病かなぁ
プリンとかゼリーとか喉をスルッと入る冷たいものが冷蔵庫に沢山入っていて
母と一緒に教育テレビを見ながら食べた記憶が。

そして食べ終わり寝ていると聞こえてくる、洋楽と母の活動する音に安心しながらまどろんだよ


私も子供には同じようにしている。
だから子供達は体温計を測る時点からものすごくWKTKしてるわw

子供の頃よく中耳炎になってた私。
夜中に炎症起こして熱が出て痛くて泣きわめき、眠れなかった私の耳をずっと添い寝しながら冷やしてくれたのが嬉しかった。
母も疲れて眠かったろうに寝ずにずっとお腹トントンしてくれてたなぁ…
風邪ひいた時に作ってくれたお粥やすりりんごもすごく美味しかった。
そんな母は去年、私が下の子妊娠中にガンが発覚、それから3ヶ月で他界してしまった。
皆さんオトンオカンを大切にして下さい。

高校生だった頃、ジャンプやビックコミックみたいなオッサン漫画雑誌を読んでても
何も言わないどころか一緒に楽しんでくれた母。
進路に悩んでいたころ、「あんたはモテないんだから、結婚できなくても食いっぱぐれないように
手に職をつけなさい」と言ってくれた母。
私の大事な趣味になった編み物を教えてくれた母。

父は仕事が忙しくて、家にいることが少なかったけど
料理が上手で、私が揚げ出し豆腐が食べたいと言ったら、
ちゃちゃっと作ってくれた父。

両親夫婦仲はよくないけど、娘は感謝してますよ。

やりたいと言った習い事は全てやらせてくれた事
勉強しろと言わなかった事
本なら好きなだけ買ってくれた事

夏の夜、私が寝る時はいつもいつまでもうちわで扇いでくれた事
夜中に目が覚めた時も母が扇いでいてくれた。
と思ったらずっと祖母と寝てたんだったぁぁぁぁ。
母と寝ていたのは弟。
記憶が都合良く改変される良い例だわ。

自営業の共働きで昔は繁盛していたので忙しく、0歳から保育園→小学校はずっと鍵っ子だった。
毎週水曜日の両親の休みが楽しみすぎて、毎週学校から全力疾走で帰ってた。
カーペンターズを聞きながら、私の帰宅にあわせてケーキを焼いて待ってくれている母が大好きだった。

大人になった今でも、日曜日より水曜日が何故か特別で一番好きな日。

なんか涙出た。
私も娘の心に暖かいもの残せたらいいなー。

絵を描く事を続けさせてくれた事
美大受験の前に急に思うように描けなくなった私に「◯◯(妹)にはナイショだからね!」と言って、大好きなディズニーランドへ2人で出かけた事が忘れられない
大学受験当日には、昼食のおにぎりを持たせてくれた
昼休みにおにぎりを食べようと包みを開けるとメモ書きが1枚
「思いっきり楽しんで描いちゃえ!」と母の字
それまで張り詰めていたものが急に緩んで
、嬉しくてウルウルしながらおにぎり食べた
午後からはかなり楽しく描けた
難関だったし倍率もかなり高かったけど、無事に合格出来た
母の事が大好きだし、感謝しっぱなしだ

厳しくて働き者の母親だったけれど
どんなに体調悪かったり仕事が忙しくてもお弁当だけは必ず手作りだった
以前はケチってるだけだと思ってたけど
自分が結婚してみてそれがいかに大変な事で、大切な事だか解ったな

親になってからわかる親の大切さ
いつもはすごい甘やかされてたけど、反抗期で道を外しかけた時には二人で私をちゃんと叱ってくれたね
あの時は親を恨めしく思ったけど、あとから思うとちゃんと自分をみて心配してくれたからこそのこととわかるようになった
親の前では言わないけど、いつもありがとうね

私の両親はバリバリ共働き
祖母に育ててもらったようなもので、昔は「金と習い事の送り迎え以外感謝してないし!」と思ってた

でもその「金と送迎」がどれだけ恵まれていたか…
自慢乙って言われそうなくらい何でも買ってもらえて、何でもやらせてもらえた
大学も兄と3年かぶって、両方県外だったのに奨学金も借りずに卒業させてもらった

でもそれだけじゃなくて家族旅行も沢山したし、8ミリビデオで撮った映像が沢山残っている
この歳になっても、家族で昔の思い出を笑いながら沢山話せるのは本当に嬉しい

誕生日がこどもの日に近いからって、当時大好きだったポケモンのスプーンセットを買ってくれた
いつもは姉と一緒になってキモイだの頭おかしいだの罵ってたんだけどね
今でも大事に使ってる

看護婦だった母は夜勤が多くて、私が夜寝れないのを気にして枕元にオルゴールを用意してくれた。
中耳炎で通院するとき、痛いのを我慢できるように、綺麗な鈴を買ってくれた。
風邪で寝込んだ時は、たくさん甘えさせてくれた。
ものすごく厳しく、クールな母でしたが。弱ってるときは優しかったなあ。 

当時 お好み焼き屋さんを営んでいた母親。学校から帰宅すると
冬も夏も小さな玄関先に立って『おかえり~』と笑顔で待っていてくれた。泣きたい時もいつも傍に居てくれた。母は今はもう天国に行っちゃったけど、自分が結婚して子供があの時の年齢になって
同じことして待ってる自分。

母が、私がピアノ発表会で弾いた曲を全てカセットテープに録音してくれていたこと。
母が亡くなって10年経つが、テープのインデックスに書いてある母の字を見ると温かい気持ちになる。
娘の発表会の録音、続けよう。

お母さんってよく手紙をくれた。何歳になっても、愛するみっちゃんへから始まる愛がいっぱいの手紙。あと内容がごめんね。って謝る事が多かったかな。謝らなくていいのに。寂しくないよこんなに愛されてるもん。あー。私ってこんなにも幸せだったんだ

父がお風呂に入れてくれる時、お風呂から出ると母がでっかいバスタオルを広げて待っていて全身を包んでもふもふ拭いてくれるのが好きだった。
恐らくものすごく小さい頃の記憶なんだけど、いい香りであったかくて、とてもいい気持ちだったのは今でも覚えてる。

「うちみたいな貧乏人は誘拐されない」てさんざん言われて安心して育っていた15歳の頃、(ホントは身代金目的だったけど)犯人に殺されちゃった女子大生のニュースを一緒に見てた母が「お前達がこんな目にあったら犯人をぶっ殺してやる」って言ってくれました

「なんじゃそりゃ」

私は鼻で笑ってましたがうれしかった


その日の夕方母は買い物に行ってそのまんまくも膜下出血で亡くなっちゃいました


オカン
ありがとう
ホントにうれしかった

食卓が豊かだったこと。
当時まだ珍しかったエスニック料理、手作り肉まん、ピロシキ、焼き菓子いろいろ。
日本各地の郷土料理。
朝食に出てきた甘いチャイ。
同年代の人と子供の頃の食事について話すと、母のつくってくれたもののバリエーションの豊かさに驚かれる。
今で言う食育もしっかりされてた。
私含めてきょうだい3人全員が、ごく自然にバランスのいい食事を自分の子供たちに与えてると思う。

大したことじゃないんだけど、いろいろ旅行に連れて行ってくれたことかなぁ
子ども3人抱えての旅行は大変だったと思う。
それから誰かの誕生日には必ず家族でケーキを作ってお祝いした

同じことを自分ができるんだろうか…

かなり厳しく悪いことするとすぐにブン殴ってくる父と母だったが、二人が優しいのを俺は知っている。 特別な事されたって記憶はないけど今になれば普通ってのがどんだけ幸せか痛感する。
高熱出まくってた学生時代にイライラもせずよくもまぁ面倒みてくれたなと思うよ。

調理実習の日の夜中、突然気持ち悪くなって掛け布団に嘔吐してしまった。母は怒ると怖い人だったので隣に寝ていたが起こせなかった。朝方、掛け布団の汚れに気づいた母が何も言わずに処理をして毛布をかけてくれてた。ものすごく怒られるって怯えてたから嬉しかった。

両親不仲だし、円満な家庭って感じではなかったけど思い起こすと優しい思い出がちょこちょこある。いつもイライラしてるから私も子供にもっと優しくしよう‥

三人兄妹の真ん中で、しっかり者で健康優良児だった。他の兄妹に比べて、明らかに構われてなかった。ちなみに家は貧乏。

でも買い物に一緒について行くと、ごくたまーに、他の兄妹に内緒でケーキ買ってくれたんだよなぁ。
見つかるといけないから、次の日の朝に早起きして食べるの。今でもいつも買ってたケーキの色や形、味も思い出せる。

もしかしたら他の兄妹にも同じことをしてたかもしれないが、とりあえず特別があったことで自己肯定感がひとなみになった気がする。

共働きなのに毎日お弁当作ってくれたしダイエットしだしたら合わせて野菜中心にしてくれた。学校でいじめられた時は涙目でたくさん話聞いてくれた。いつも共感してくれたのが嬉かった

電車を待つホームで、父に両手を持ってもらってジャンプして遊んだこと。
日曜の朝、あげる前の布団で海苔巻きみたいにゴロンと丸まったのを、
父が勢い良くひっぺがして遊んでくれたこと。
土日に自転車に乗る練習に付き合ってくれたこと。
一緒にお風呂に入って手で水鉄砲をしたり、500や1000まで一緒に数えたりしたこと。
逆に0.1秒なんて小数を覚えたのもお風呂だった。

年齢と共に父に対する反発も大きくなっていったけど、こんな些細なことも楽しかったし嬉しかった。

小学生の頃、昔持っていた子供用の財布に手書きの『自転車免許』が入っているのを見つけた
いた。大人が持ってる車の免許が欲しいと私が言ったのかは覚えてないけれど、似顔絵も描いて
あったりしてかなり細かく書いてあった。
当時の記憶は無いけど嬉しくなった思い出。

小学校をお受験した
合格発表を父と見に行ったとき不合格で
それがとても悲しいことだと思ったので泣いた
父が慰めようとその後サンリオピューロランドに連れて行ってくれた
サンリオがあまりに楽しかったので、十年くらいは
合格発表見に行った日とサンリオ行った日が同じ日だと思ってなかったw

私は、いつか書いた気もするけど小学生の時。
学校は楽しくなくて朝行きたくないな~って思う日々を送っていた。
お母さんは絶対休んじゃダメ!な方針だったから有無を言わさず追い出されてたんだ。
でも、トボトボ歩いてて振り返ると必ずアパートの窓から顔を出して見ていてくれてるの。
さすがにもう居ないかな?って時も笑顔で見てるのよ。
今も覚えてるから相当嬉しい瞬間だったんだと思う。

今上の子が小1なんだけど集合場所までにうちの私道がしばらく続くから
そこまで一緒になにかお喋りして歩いて送り出すことにしてる。
下の子いて騒がしくてふたりで話せること少ないしと思って。
たまに急いでて笑顔忘れてるけど明日からは笑うわw

食べ物の好き嫌いなく育てられたこと
一通りの食材を見て食べたので初めてのものが中学以降ほとんどなかったこと
残さず食べることを習慣付けられていたので、どこでも褒められて自信が付いたこと
結果として食わず嫌いもしなくなり、食べ物以外にも初めてのものへ臆さず挑戦する性格になったこと
食べ物以外では、あいさつをきちんとするように躾けられたので、どこの親にも褒められたこと

私も親になるので、同じような教育ができたらと常々思う

小1の頃、肺炎で入院した時。
好き嫌いが多くて、病院食が全然食べられなかった。
本当は駄目なんだけど、カーテンを閉めてこっそり森永のキャラメルを
一粒だけ、食べさせてくれた。凄く甘くて優しくて、困らせちゃ駄目だと思い、
病院食をきちんと食べるようになった。
キャラメルがその時から大好物になったよ。

醤油を取ってくれた母に「ありがと」と言ったら
「あんたはちゃんとありがとうが言えて偉いね」と、さらっと言われた。
わざとらしくない、自然な言い方だったから妙に嬉しくて、ずっと心に残ってる。

この程度の事をしつこく覚えてるんだから、
もしかしたら誉められた経験が少ない子供だったのかもw

でも、お手伝いやプレゼントした時の大袈裟な喜ばれ方よりずっと印象に残ってる。
親が本気でそう思ってるのかどうか、子供は本能的に感じ取ろうとしてるのかもしれない。

私が幼いころから、母は姉ととても仲が良かった。
祖母(母の実母)が「お母さんはお姉ちゃんにべったりで、あんたが可哀想」とぼそっと漏らすくらい。
私のことなんて目に入らないみたいで、私を置いて二人でお出かけなんてこともしょっちゅうだった。
だから、私は母にあまり愛されてないんじゃないかと思いながら大人になった。

私が妊娠した今、母は私に妊娠中のことや幼少期のいろいろなエピソードを聞かせてくれる。
その内容がとても細かくて、めちゃくちゃ些細なことばかりなんだけど、嬉しそうに話してくれる。
ちゃんと見ていてくれていたんだ、私もちゃんと愛されていたんだって、私も嬉しくなる。

私も数十年後、我が子にいろんな話を話してあげたい。

中学生の頃、結構酷いイジメにあった。
それを伝えたらその日の夜にいじめっ子の家に全員の親呼び出し→乗り込んで話し合いをしてくれた。
次の日からイジメはぱったりなくなった。10年以上経った今でも忘れられないくらい感謝してる。

現在親子喧嘩の真っ最中。
良スレ見てほっこりしたし、明日仕事終わりにお母さんの好きな果物とお父さんの好きなお酒買って帰ろうと思う。

小学5年生で自分の部屋を貰ってから、
自分の部屋は自分で掃除をして
自分の汚れ物も自分で洗濯するようになってた

母は専業主婦だしマメな人なんだけど
面倒でたまにしか掃除機かけてなくても
小言も言わず、部活で洗濯物溜まってたら
たまに洗ってくれたりしてた

自分が結婚する直前、母方の祖母を要介護で
引き取ってたんだけど、
母が祖母に「この子は家事なんでも出来るから
心配いらないわ」って言ったのがすごく嬉しかった

自分の子も、出来る年になったら
あまり世話せずに自分でやらせて
出来てなくても怒らないようにしようと思ってます

私は母が家事をちゃちゃっと済ませてしまい、何も教わらず根もダラなので、
立派なダラ主婦になってしまった。
娘には家事ができるようにしてあげたいな。

私がされて嬉しかったのは、とにかく何でも認めて褒めてくれたこと。
もちろん叱られた事もあるけど、基本的には褒めて育てられた。
いまだにこんなダラなのに「ちゃんと3食作っていて偉いじゃない!」「あなたの料理はお母さんを超えたわね」
とか、一見オーバーに聞こえそうなのに、自然にさりげなく褒めてくれる。
本当にありがたい。母ちゃん大好き。

大学選びで父と私が揉めたときに、母が味方になってくれたこと。
「いざとなったらお母さんがなんとかお金を出してあげる。
お父さんもお父さんなりにあなたの幸せを願っているの。
けど親が代わりに生きてあげることはできないのだから、
あなたはあなたの一番いいと思う道を行きなさい」
と言ってくれた。
このときのことを思い出すと、今でも胸がいっぱいになる。

夜寝る前や特に何でもないときに「おいで」と言われて母によく抱き着いてた。恥ずかしがりながらも弟も母に抱き着く。何故か安心して嬉しかったのを今でも覚えている。

妹が産まれる前、母は一ヶ月くらい入院してて
父とお見舞いに出かけた帰りに
百貨店のレストランで食べさせてもらった
お子様ランチ。
父は堅物で、滅多に外食なんか連れて行ってくれなかったので
強烈に嬉しかったのを覚えてる。
ドラえもんの顔の器にチキンライスとハンバーグ、オレンジジュースに
デザートは二つに折れる棒付きラムネアイス。
アイスが溶けちゃうから、先に食べろって言われたけど
アイスがでかくて

まだ幼稚園に行ってないときにお弁当に憧れてたので、母親に作ってもらって家の庭で食べたこと。
ピクニックごっこもよくした気がする。

デパートに行って、ダブルのアイスを食べさせてもらったことが嬉しかった。
「トリプルはもっと大きくなってからね」って言われたけど、結局食べないまま大人になってしまった。

台所に立っている母親の横で、冷蔵庫の前に座って学校の話や友達の愚痴を聞いてもらうのが好きだった。

二歳上の姉と三歳下の弟に挟まれた真ん中っ子だった。
何かと放置されがちなポジションだったけど、母が「あんたが一番お母さん似だね」
と言ってくれるのがとても嬉しかったな。

よく覚えてるのは幼稚園の時、父がたまに買ってきてくれる鯛焼きや大福を夕食後に
食べるのが楽しみだったんだけど、ある日弟が私の分まで勝手に食べてしまった。
弟も三歳かそこらで悪気は無かったんだろうし、父や当時同居してた祖母も「しょうがないなぁ」
って感じで私が我慢するしかなさそうな雰囲気だった。
でも母は、「これじゃ可哀想だ。せっかく楽しみだったのに」と、私を車に乗せて鯛焼きを
鯛焼きを買いに連れて行ってくれた。
運よく屋台の鯛焼き屋さんが店仕舞い直前だったのを滑り込みで買えた。
帰りの車の中で食べたほかほかの鯛焼きの味は今でも覚えてる。
何より母が私が鯛焼きをどれだけ楽しみにしてて、その気持ちを分かってくれてたのが嬉しかったな。

このスレ見てると、やっぱり自分の考えや希望を親が尊重してくれるって
すごく嬉しい事なんだね
自分もそんな親にならないとなぁ…

私は妹がいたんだけど、お父さんが休みの日に
私だけ連れて喫茶店に連れて行ってくれたのが嬉しかった。
コーヒーの香りの大人の世界って感じで、
なんとなくお父さんとデートみたいな気分で、背伸びした気分だった。

私は母に怒られた記憶がない。常に優しかった。
誰に対しても優しく温和だった。私が中学生の時病気で天に召されてしまった。
が母の苦労を後に知った。何も娘に伝えることもせず旅立ってしまった。
お母さん、あなたを恨んだことなど一度もないよ。
私を生んでくれてありがとう。あなたに似た心の優しい子供をさずかったことが
が何よりの贈り物だと感謝しています。

自分の話じゃないんだけど、母と祖母の話。

ささいな事なんですが、母は祖母(母の母)に、
冬の日、ジャンパーの袖口から肘の辺りでつまった中の服を引っ張ってもらうのが、本当に嬉しかったと未だに言います。

あれやってもらうと一瞬で腕が温かくなりますよね。
子供の頃、
祖母は温泉旅館の寮に住み込みながら働いていて、たまにしか会えなかったから余計に嬉しかったみたいです。

私は冬に毛布と掛布団を掛けて貰い、
肩回りを押さえて寒くないようにしてくれるのが好きだった。

シートベルトが義務じゃなかった時代。
運転する母がブレーキ踏んだら手で私を抑えてくれていた。

紺色に小さな花柄のロングスカートをはいている母がキレイで好きだった。
そのスカートばかり褒める私に綿ブロードで似た感じのスカートを作って
くれたのが、とても嬉しかった。
私が妊娠してもう入る服がない~と母と話していたら、これ着る?と
懐かしいあのスカートを出してきた。八ヶ月の私にピッタリなサイズで
笑ってしまったけど、実はとても嬉しかったw

貧乏で、家にあるコップは、私を溺愛していた近所の酒屋さんからの貢ぎ物か、結婚式の引き出物、内祝い(知らん子の名入り)など。

小6の冬、天体観測の宿題が出て、母親が塾をやってる友達と2人で見た。
完全に冷え切って2人で家に帰ると、とっておきのティーセットでミルクティーを淹れてくれた。
喫茶店で出てくるみたいな広口の、お花みたいなカップ。
もう父は酔っ払って寝ていたので(20時w)、玄関で飲んだんだけど、今でも忘れられない。
ボロボロの小さな借家の玄関には不釣り合いな、本当に素敵な時間だった。
以来、ミルクティが大好きになった。
卒業式の朝、入学式の朝、受験の朝・・・とっておきの日に、あのとっておきのティーセットでミルクティを出してくれた。
今は帰省した時。

そして、それが縁で、その友人母の塾に通わせてもらってた。
私に子どもが産まれて、一緒に天体観測をした友人が、母親と会いに来てくれた時、友人も覚えててくれて、なんだか誇らしかった。

誰かも書いてたけど、お風呂上りにバスタオルで受け止めてもらったこと。
パフパフしてもらうのって気持ちよかったなあ。

小さい頃はよく熱を出してたんだけど、そうすると父がおじやを作ってくれた。
イリコと味噌で味付けがデフォ。具はサツマイモその他冷蔵庫にあるもの。絶品だった。

私のソウルフードなんだけど、この間父に話したら覚えてないと。。

この夏帰省する時に作ってもらう約束。

うちも父親の作ってくれた甘辛い卵焼きが忘れられない
母親曰く「塩砂糖入れ過ぎ!」なんだけど、絶妙で微妙な比率があるらしく
どんなにやってもあの味が出せない

もう食べることも、玉子焼き大好きな子供(父には孫)に、
一度でも食べさせてあげることもできなかった、お父さんの玉子焼き…
去年の秋、三回忌だったんだ。

出産当日、「陣痛始まったから今から入院する」と両親にメールした。
父は普段、会社にいる時間に返信しないのに、「大変だろうけど、何も心配せずに頑張りなさい。生まれたら知らせるように」と即レス。
生まれたとメールした時も、深夜だったけど「お疲れ様。今はゆっくり休みなさい」と即レス。
予定日が近づいて、常に気にしてくれていたから、すぐにレスをくれたんだろうな。
嬉しかったから、メールは保護してる。

ちなみに母(50歳)はメールが使えない。
教えると言っても「いらんよー」と、全く覚えたがらない。
何故か送ってほしがるから送るけど、いつも「メール来たよー」と電話がかかってくる。
しかしそんな母がなんか大好きだw

とても厳しかったけれど、私が希望した道を応援してくれた両親。
進路も習い事も一切ダメとは言わなかった。
どちらも大したことはないが、きちんとキリのよい所まで続ける事ができた。
色々迷惑をかけたけれど、決して見捨てないでいてくれた。
そして結婚するとき、初めて反対されたが押切り結婚した。
でもすぐに離婚することになり、かなり叱られはしたけれど、
それでも最初から最後まで味方してくれていた。
そして再婚が決まり本当に喜んでくれ、やっと妊娠したのに切迫流早産で入院ばかり、
しまいには胎児の命が危ない所まで来てしまった。
その時、父は大事な商談があったらしいのだけど、
何もかも放って母と高速を飛ばして1時間以上かかる病院まで来てくれた。
緊急で帝王切開になりはしたけれど、どうにか子供は無事に産まれてくれた。
病室に戻ってきた私を真っ赤な目で「おめでとう」と言ってくれた両親。
本当はゆっくりしたかったかも知れないけれど、私の体を気遣って病室に戻って10分程で帰ってくれた。

無条件で味方になってくれるのはやっぱり親なんだと思う。
今では私が育児で辛い時など、子を預かってくれ、リフレッシュさせてくれている。

幼稚園教諭免許もちの母は歌や手遊びが好きだった。内向的で泣いてばかり、お友達と遊ぶのもへたくそな自分だったけど
母と手遊びをしてるときは夢中でよく笑うこどもになれた。
今、母親業もやはり下手くそな自分だけど、子どもと一緒に手遊びしてるときはちゃんと親子の交流出来てるようで嬉しい。

私は恥ずかしいけれど思春期に高校中退して遊びまわったあげく人間関係に傷ついて一年半くらい家から一歩も出れなくて引きこもってました。親を邪険にしたくせに傷ついたら結局帰る場所は親しかなくて。親に逃げて。。

世の中が21世紀になってテレビでみんなが2000とかのメガネかけて浮かれているの見て、「あぁ、私はなんて迷惑かけてるんだろう。中途半端に生きて死ねもしないで。。」と思って泣いてた。

そしたら親が「あなたと一緒に年をこせて嬉しいよ、生きていてくれてありがとう」って言ったんだ。

びっくりしたよ。私は迷惑かけてばかりのお荷物なのに。

その言葉がきっかけで生きていかなきゃ、親を悲しませたくないって思った。

それから色々頑張ってバイトしながら通院しながら通信高校入りなおして、大学も行った。

働き出してささやかながら人並みに恩返しできるようになったけどあの頃の親の苦労、悲しみを思えばまだまだ足りないです。
親にはまだまだ長生きしてほしいし、たくさん恩返ししたいです。

ええ話や…
やっぱり、例え子から裏切られても親は子を見捨てちゃいけないね
改めて気付かされたよ、有難う

貧乏だったけどクリスマスの夜には必ず枕元にお菓子を置いてくれた
高校生になってもお菓子だったけどやっぱり嬉しかった
大人になって高い物を貰っても小さい頃のクリスマスの高揚は越えられない

夜、怖い夢を見た時に母親の布団に潜り込んでた。
嫌な顔一つせず迎え入れてくれ目安心したなあ。
母親のにおいが心地よかった。

冬になると、登校前に母がストーブの前に私の上着や靴や手袋を置いて暖めてくれていた。
もちろん登校途中で冷めちゃうんだけど、
それまではホカホカで母のぬくもりを感じるようで幸せだったな~
友達関係が上手くいかないことが多くて、学校があまり好きじゃなかったけど、なんだか守られてるという安心感があった。

今日はホームに入ってるじいさんに会ってきた
新しいトラクター600万で買って規模拡大もするんだぜ
って報告したらがんばれよって
じいさんが30年前に買って、俺の自慢の村一番だったトラクター、
それからもう4台目だけど、じいさんのトラクターだけは下取り出さずに置いてある
ときどき動かして、あのときみたいに田んぼの中を走るんだ
じいさんはもうオレのことは覚えていないみたいだけど

小学校3~4年の時でも、母が時々「久しぶりにだっこしようか」と
10分位だっこしてくれた。
3人姉妹だったから、母を独占できるのが嬉しかった。
自分ではもう大きくなったと思ってたし、だっこしてなんて自分からは
言えなかったけど、母にだっこされるとすーっと気持ちが楽になって、
嬉しくて、気持ちよかったなー。
今思い出しても幸せな気持ちが蘇る。

年少の息子の幼稚園からのチラシで購入し始めた
毎月定期の廉売絵本(同人誌のようなオフセ仕様)で
先月配布された絵本「ちょっとだけ」っていう本の内容がちょうどそんな奴だったよ

絵は嫌いなタイプの絵だったけど、号泣した。

「ちょっとだけ」本屋さんでパラ読みして危うく泣くとこだった
ちょうど2人目妊娠中でリアルに想像できちゃったもんで余計に…
今日寝る前に上の子膝に乗っけてぎゅーってしたら嬉しそうにしてた
「いつも下の子ちゃんばっかり抱っこしてもらっていいなぁ…ママ大好き!」って言われて、寂しい思いさせてるなぁって反省したよ

これだけじゃ何なのでマイ嬉しかった思い出
年の離れた弟命で私は3の次以下だった毒母
いつも弟の世話係とパシリ要因として買い物や用足しに連行されてた
ある時学校帰りにこき使われてクタクタだわお腹すいたわで、下向いて弟の手を引いてトボトボ母の後ろを歩いていたら珍しく「コンビニ寄ろうか」と言われた
タバコでも買うのかな…と思ってついて行ったら、母が買ったのはホカホカの肉まん
「お腹すいたでしょ」って私にくれた
いつもの癖で弟に半分あげようとしたら、「弟にはお母さんのあげるからあんたは全部食べな」
日頃のやりきれない気持ちが吹っ飛ぶ位あったかくて美味しい肉まんだった
今でも母はやっぱり毒なんだけど、この肉まんを思い出すと心があったかくなる

ちょっとだけ を下の子が生まれたての時期に上の子(当時3歳ちょっと)に
初めて読んであげた時案の定泣いたw
でも悟られるのも恥ずかしかったからめっちゃごまかしたっけ

ここに出てくる絵本『ちょっとだけ』。
これ、私もこのスレッドで知って、読みました。泣けました。。。特に二人目が産まれたタイミングだったので余計に。
あらすじは...

なっちゃんの「ちょっとだけ」って、何だろう?

なっちゃんのおうちに、あかちゃんがやってきたのです。
ママのスカートを「ちょっとだけ」つまんで、
牛乳をコップにひとりで「ちょっとだけ」入れられて、
ひとりで遊んだブランコだって「ちょっとだけ」ゆれて・・・。
なっちゃんは、ちょっとずつちょっとずつ頑張って「おねえちゃん」になっている様です。

でも・・・ね。
愛情たっぷりの最後のシーン。
ママ達は、涙なしでは見られないんじゃないかしら。

健気ななっちゃん。
大きな優しさで包み込むママ。
そして可愛いあかちゃん。

作者が3人の子どもを持つママ、というだけあって、子どもへの愛情でいっぱいのストーリーです。背景がほとんどない、シンプルな絵も、子どもを温かく見守る視線で、子どもって、本当にかわいい!子育てって、本当に素敵なことなんだ!まっすぐに訴えかけてきます。どんな立場の人だって幸せな気分になる絵本です。

これからママになる方へ、是非プレゼントしたくなる1冊ですね。
ちょっとだけ|数ページ読める|絵本ナビ : 瀧村 有子,鈴木 永子 みんなの声・通販より引用

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それでは、スレッドの続きに戻ります。。。

私は末っ子で、恥ずかしながら中学生になっても両親の寝室にもぐりこんで
布団の真ん中を陣取って寝ちゃう子だったんだけどw、
更に母親の体に片足を乗っけた体勢が本当に気持ちよくて大好きで、
いつもそうしながら母親とおしゃべりしながら寝てたんだ。
でも、結婚してから気付いたんだよね。人間の足って結構重たいって。
お母さん、毎日重たくても何も言わなかったんだな。今更ながらごめんなさいと思う。

姉妹の長女だったけど、母から一回も「お姉ちゃんなんだから…」という言葉が出てこなかった。
おかげで特に姉だからといって我慢することなく育ったような気がする。

いつも仕事に追われ、母と会う時間もほとんどなかった。
ある日学校からハンドメイドのエプロンを持ってきなさいと言われ、ただでさえ忙しく不器用な母には…と思い、何も言わずにプリントをテーブルに置いていた。
2日後、枕元にお世辞にも可愛い!とは思えない、手縫いのエプロンが。
そういえばいつも家は片付いてたし、ナフキンなんかちゃんとアイロンがかけてあった。
いつ寝てたのかな。ダラな自分には到底無理だ。
女らしさがなく、子供時代は綺麗なよそのお母さんが羨ましくて仕方なかった。でも頑張ってたんだな。
過労で倒れ、そのまま逝ってしまった。
このスレのお陰で母の良いとこを思い出すきっかけになったよ。ありがとう。

ひな祭りの時期ではなかったんだけど
ひな人形がみたいって駄々こねてたら
母さんが、ゆで卵に食紅で十二単描いて
ゴマで目を付けて海苔で髪を付けて
即席ひな人形を作ってくれた。
三十年も前の事だけど、凄く嬉しかったのと
母さんすごい!っていう衝撃、今でも鮮明に思い出せる。

社会人になってからも、飲み会で帰りが遅くなったときは駅まで迎えにきてくれたことかな
免許はペーパーだった母なので自転車で。
大雨の時も傘をさして待っててくれた。
おせっかいとは思わなかった。
私も女児が生まれていたらきっと同じことをしただろうな。

私もかなり大きくなってからも、
時々母に抱っこしてあげる(抱きしめるだけだけど)と言われ、
「えー!!いいよ、いいよー!」とか言いながらも、抱きしめてもらってた。
恥ずかしいんだけど、すごくうれしかったよ。

いまうちの娘は3歳で、抱っこ魔。
あまりに、まとわりついてくるので、時々邪険にしてしまうんだけど、
母を見習って、たくさん抱っこしてあげたいと思う。

大したことじゃないんだけれど、幼稚園年長か小学校低学年頃
父と弟と河原へ出かけたら、父か弟が怪我をしたので持っていた絆創膏を出した
父が「準備をよくしていて偉いなあ」と褒めてくれたので嬉しくて
その後も意識的に絆創膏やら飴玉やらちょっとしたものを持ち歩くのがクセになってるw

母が何でも手作りしてくれたのが嬉しかった

ぬいぐるみ、リカちゃんの服、私の普段着、季節ごとのよそゆき、バッグ、
毎日のおやつ、特別な日のケーキなどなど

友達に、手作りなんだっていうとよく驚かれていた
お弁当もいつも品数が多くて彩りが良くてうらやましがられた

毎日の食事も、なになにの素とか、味付けまでしてある肉魚とか
冷凍食品とかは一切使わずに作ってくれていた

子ども3人いるのによく時間あったなあと自分が子持ちになって思う

うちの母も冷凍食品や半調理品など一切買わず、
おやつも手作りでよく作ってくれた。

私も親になったら、そうなるのかなー、と思っていたけど違ったw
確かに自分で何かを作ることは大好きで料理も好きだけど、
市販の物もそこそこ美味しいのもあるし、何より手抜きしたい時もあるし、
結構買ってしまってる。

そんな私を見て母は「うまくバランスとっていて賢いわね!」とか褒めてくれる。
甘やかされな過ぎな気もしないでもないけど、
沢山褒めて認めて育ててもらって本当に有難いと思っています。

手作りのお菓子作ってもらえたのがうれしかったな~。
でっかいババロアが美味しくて美味しくて、忘れられない。
仕事してて忙しい母だったから余計そう思うのかも。

あと、本を読んでくれたのもうれしかった。
声色変えて読んでくれてたから大爆笑してた思い出。

書いてたら泣きそうになってきたよ。

ご飯作ってると、味見させてくれて
食卓に出たのより味見のが一番美味しかったなぁ、とか思い出すよ。

ちなみに私自身の記憶では
葉っぱや花を庭で切ったり、絵の具で色水作ってジュースとか言って
おままごとさせてくれるのが超好きだった。色水作りなんてそれはもうウキウキした。
田舎なので、でかい小屋にいろんな農作業の道具とかあって
小さいまな板とか実際に切れるちょうどいいサイズのナイフみたいなものもあったので
それを使うのが本格的っぽくて嬉しかった。

私も母の手作りは嬉しかったな~
母がミシンを取り出すとワクワクしてミシンの周りに集まってた

あと5歳くらいのとき、風邪でものすごい高熱が出て母と病院にいったんだけど、
待合室で熱のせいで意識が朦朧としてそのまま意識を失った
(寝ちゃったのかも。詳しくは覚えてない)

目を覚ましたら点滴を受けてて、父と母が私の顔を覗き込んでた。
父も心配して病院に来てたらしいんだけど、辛いときに目を覚ましたら
視界に父母の顔があって、本当に安心したのをはっきりと覚えてる

四人子供がいて、親が共働きで忙しかったので
時々父がご飯を作ってくれるんだけど
オムライスの時に、リクエストを聞いて
ケチャップで絵を書いてくれた事

朝早く起きた時、冬など寒い時期は
部屋が暖まるまで布団に入れてくれた事

両親はバリバリ共働きで、家事育児は祖母が一手に引き受けていた
最近、私が母に「ばあちゃんおらんかったら妹おらんかったよね~。てか私(真ん中)もおらんかったかもw」って言った
そしたら母は「うちは、ばあちゃんおってもおらんでも3人って決めてたからね」と言われた
全員望まれて産まれてきたんだって、当然なんだろうけどすごく嬉しくなった

で、60歳近い父は私に「子どもは少なくとも3人だ!」と豪語する
じゃあ地元に帰るから、お世話お願いねと言いたいw
そんな父は、0歳の孫より30歳に片足突っ込んでる子どもの方が未だに可愛いらしい

周りの友達はそんな下らない事しないで勉強(ryと言われてた頃
漫画を描く趣味を唯一の趣味だからと認めてくれた事

大人には下らない事でも認めてあげるって大事だと思う

小学生の時に軽いいじめを受けてて、母子家庭で母ちゃんに心配かけたくないから黙ってたんだけど、なんとなく感づいた時に言われた言葉

「あんた、外の子に何かされよらんね?もし、なんかされたりしたら母ちゃんにすぐ言わないかんよ!」
「うちはお父さんおらんけど、母ちゃんがあんたば守ってやるけんね!!」
って抱き締めてくれた。

自分の嬉しかった事、小学生くらいになってから夏は毎年キャンプに連れて行ってもらえた。
普段は早寝早起きなんだけど、その時だけは夜食も良くて、
毎年何故かどんべえのうどんで、美味しかった。

揚げたてのフライドポテトを、円すいに丸めた紙に入れて、私と妹にくれたことがある
ファーストフード風の母の似顔絵マークが描いてあって、とても楽しかった

当時は、編み物してる時のお母さんは大嫌いでした(かまってくれないから)
私が今妊娠中で生まれてく赤ちゃんにお母さんが、オクルミやら、帽子やらケープやらを編んでくれている。
家に帰ってから箪笥の奥にしまってあるお母さんが編んでくれたマフラーを出して泣いた。大泣きした。これを書いている今も泣いてる…お母さんって暖かいな…

自分が小さいころ、家にはクーラーがなくて夏は扇風機で乗りきってたんだけど、昼寝をしていると母がうちわでずっと扇いでくれた。

私は生まれつき両股関節脱臼で小学生まで入退院してたけど、母ちゃんがずっと付き添ってくれてた
手術後、痛み止めの副作用で夜中まで吐き気が止まらなかった時は優しさが染みたなぁ
生理痛酷くて辛くて壁叩いて助けを求めた時も、夜中なのに飛んできてくれた
母ちゃんは何かあるとヒステリー起こすけど、真面目で優しすぎるんだなと思う
これからも生暖かく見守ってるよ

父ちゃんは進路に悩んでる時に相談乗ってくれたのが嬉しかった
何となく生きたくないとか厨二な気持ちもあったんだろうけど、勉強嫌いで高校進学の意義が全く分からなくてかなり悩んでた時に
高校の友達は一生ものだから行って損はない、やりたい事は入ってからじっくり考えなさいって言ってくれて泣いた
お陰で一生ものの友達が出来た

幼稚園の頃 託児所付きのパート先から真冬の真っ暗な道を30分弱かけて歩いて帰る途中に コンビニみたいな何でも売ってるパン屋があった
そこで肉まんを母の分と2つ買って 「寒いから持っとき」と言って持たせてくれた事。
暖かくていい臭いで「はぁ~」っといいながらおかんの顔見ると 優しい笑顔で私を見てた。

イベント時には食べたい料理のリクエストを聞いて作ってくれた。
誕生日にはお子様ランチ。ハンバーグやパスタにスープ、旗まで手作り。
運動会や遠足に「おにぎりとサンドイッチと唐揚げ!」毎回全部作ってくれた。
私は娘にそこまで出来ないよママンw
我が儘聞いて苦労してくれてありがとう。

四歳ぐらいの頃だったかな。キャラクターのピクニックセットがお気に入りで 普段は玩具をいれてピクニックごっこしてた。
ある日 いつものように開けようとしたら…サンドイッチとか 色々な料理が入っていた! 嬉しかった。

…もう私36歳・一児の母なのに まだ母に素直になれない。すぐカチンときて喧嘩になる。どうにかしたい。

母がギューちゃんと名付けた
抱きしめてもらう時間があった。
母の膝にのってギューっとしてもらう。
学校から帰るとギューちゃんタイム。
小学校5年の時に、急に恥ずかしくなってやめたんだ。
母はさみしそうだったけど。

中2の時にイジメにあった。
日々元気が無くなる私に母が察したのか
ギューちゃんしよう。と、それからイジメが落ち着くまで毎日ギューちゃんしてもらった。
イジメのこと何も言えなかったけど、見ててくれたんだな。

母の病気が発覚したのは私が中学生の時。
周りはみんなお母さんをまだまだ頼って生活してる中、私は母を頼ることができなくなり、
母に良くなって欲しい気持ちはもちろんだけど、理不尽さも感じてしまっていた。
それから数年たって母が亡くなり、遺品の整理をしていたとき、
母が防災グッズを用意してくれてたのに気付いた。
リュックの中を開けると、私のものばかり。
母の薬とかは入って無くて、私の常備薬とか生理用品とかそういうものばかり気を配ってあって、
ああお母さんだなあと思い、見た瞬間号泣してしまった。
きっと母も、入院ばかりしていたことをもどかしく思っていたんだと思う。
自分が母になってわかった。
子どもの面倒を見られないということは、ものすごく辛いことだ。
ちょっとスレチかもしれないけど、亡くなった後にも母の愛情を感じた出来事でした。

確か10歳頃、母におかわりーと言ったら
母のお茶碗のご飯を
「白いご飯もうなくて。これ食べてね、ごめんね」
と言いながら私の茶碗に即、移してくれた。
母はいつもいつも優しかったけど
自分の分のご飯を迷わずすぐに私に渡してくれたことは
なんだか自分がとても大事にされてたような思い出として今でもたまに思い出す。
母は何でも自分のこと後回しで家族の為ばかりだった。
ありがとう。

今は「あら!アレ欲しいわあ!コレもいいわねえ」が多い母となり
私もホイホイ財布出してつい買ってあげてるw
よしとするw

夏場になると、母親がワンピースを手作りしてくれたなぁ。
家着用の。
家だからってかなり派手な柄で。

10年以上着ていたけど、その母親にいい加減捨てろと言われ、捨ててしまったけど。

私もやりたいけど、裁縫嫌いすぐる…

高校時代、全国大会に行くような部活をやっていた私。
今週末は、いよいよ全国いけるかどうかの決勝というときに
軽くだけど、足をひねってしまった。

もう何十年前なので、当時夜9時といえば、お店はしまっているところが多く
部活で9時ごろ帰り、湿布がなかったので、母が手作りで湿布を
作ってくれて、次の日は、母は運転免許がないので、自転車に
乗れない私の荷物持ってくれて、地下鉄のところまで送ってくれた。
しかも朝5時に起きてお弁当を引退するまでほぼ毎日作ってくれた。

今は他界してましったけど、そういうの思い出すと泣けてくる。
今息子が部活を一生懸命やっている。
私も母がしてくれたように、毎日お弁当作って応援しています。

私が小さい頃お店を経営してた父が、40歳手前で小さな会社に転職した理由が
「子供と過ごす時間を作る為」だったと母に言われた時の驚きと嬉しさと後悔ったらなかった。
少し貧乏になったし、反抗期の時はここに書けないような酷い事をたくさん言ってしまったよ。
お父さんごめんなさい。だけど今でも凄く可愛がってくれてありがとう。
子供の頃、寝たふりをするとお姫様だっこで布団まで連れて行ってくれるのが嬉しかった。

小学生の頃、学校にいる時に雨が降ってくると
母が傘をこっそり届けてくれた。
靴箱の中に
『傘立てに傘おいてあるよー』と
小さなメモが入ってるのがすごく嬉しかった。

我が子にもしてあげたいけど
専業主婦じゃなきゃなかなかできないよね;;

12月24日の夜中寝ている時に必ずプレゼントを枕元に置いてくれていたこと。
朝になると「サンタさんが来たー!!」と狂喜乱舞する自分をいつも親は優しく見つめていてくれた。
プレゼント自体も嬉しかったけど、ファンタジーや信じる気持ち、クリスマス特有のワクワク感を与えてもらった経験は一生残る財産だと思う 感謝

母が小学校の時に入院していた時期があったんだけど、ちょうど運動会の時期だった。
「お弁当、なにがいい?」と父が聞いてくれたので、食い気の塊だった私は
「おにぎりとお寿司とサンドイッチ!」と言った。
それで、本当にお弁当箱の中に、おにぎりとお寿司とサンドイッチが入っていたんだ。
専業でもめんどくさいリクエストにこたえてくれた父には本当に感謝してる。

遠足のお手紙付きのお弁当!

2~3行の簡単な手紙だったけど 嬉しかったな

おねしょした時夜中気持ち悪くて母親を起こすとさっと起きて処理して抱き締めて眠ってくれたこと
小学低学年くらいまでおねしょしてたけど怒られた事ないなぁ

自分もおねしょ小学校5年くらいまで治らなくて、
夜中に母親起こすと、怒られたりしばらく立ってなさいとか言われた。
おねしょって怒ったらだめなんだよね。
母親も怒ってもしょうがないと分かってる部分もあったようで、
最後には必ず母の布団にいれてくれて
太ももで私の冷えた足をはさんで温めてくれたな。
親の布団って異常にあったかいよねww

この前学校で問題があって処分された・・・
でも、親はこんな自分を見放さなかった。
見守ってくれていると言うだけで嬉しい

恥ずかしながら20才過ぎまで反抗期
言葉にできないくらいひどいことを、父親にも母親にも言ってしまった罪悪感がずーっとあった
父親には特に
今自分が結婚妊娠出産して、里帰り中
結婚して落ち着いてから、言葉には出来てないんだけど、いろいろ恩返しはしてて、結構いい関係になった
でも一番は、赤ん坊が泣くと、父親が必死に必死に、でも凄く幸せそうにニコニコしながらあやしてる光景
ふっと気付いた時、泣きそうになった
病気で手が上がらないし、ちょっと不自由だから、抱っこは自分で出来ないけど、必死に声かけてる
赤ん坊の目がだんだん見えてきて目があったら「見えてる?見えてるぞ!」とおおはしゃぎ
怒ると一升瓶投げてくるような亭主関白の父親だったのにね
四人兄弟育て上げて、孫八人面倒見てる母親が赤ん坊抱くと、やっぱり慣れてるからなのか、わりかしすぐ寝るし泣き止む
それ見て凹んでると「ママが一番に決まってるでしょ」って言ってくれる
あやし方も、全部がポジティブ
例えば泣き止まなかったら、冗談でも「泣き止まなくて嫌ね」とかじゃなくて「ママじゃないってわかってるのね、おりこうさんだー!」とかな感じ
そういう発想の転換をすればいいのかと、自分の気も楽になる
どうにも泣き止まない時にも「帰ってから泣いてママが困らないように、里帰りから帰る前にたくさん泣いていきな」って言ってくれてる
今まで会話すら無かったけど、こんな状態
長くなったけど……
全部嬉しい

おねしょ、私も。
おねしょをすると、必ず母が寝ぼけながらも服を脱がせて、全裸の私を
自分のあったかい布団に入れて眠ってくれて、そのぬくもりがあまりにも幸せ
で、わざとおねしょしていた事が、何度かありました。
ごめんなさい。猛烈に。

・感情的に怒られた記憶無いしいつもどんなときも味方してくれた。
・低学年までは帰ってきたら手作りおやつやパン用意して待っててくれた。普段からメシウマで幸せだった。
・反抗期になり両親と意見が真っ向から食い違っても影では成長したと喜んでくれていた。
・中高進学や1人暮らしの度にささやかな手紙をくれた。照れ臭かったけど嬉しくてとっておいた。
・くだらないことでも一緒に笑ってくれてネタみたいな動きをしてきたりお笑いのセンスが抜群だった。
・病気や怪我のときはいつも手厚く看病してくれた。普段見れないビデオ借りてくれたりむしろ風邪ひきたかった。
・ガーデニングが上手で家周りはいつも花で綺麗だった。動物の世話も上手だった。

父の浮気で自殺してしまいもういないけど、母の教育方針は私に受け継がれてる。子どもを幸せにできるといいな。

「しろくまちゃんのほっとけーき」読んだ後にホットケーキ作ってくれたの嬉しかったなぁ
混ぜるのを手伝わせてくれて、絵本めくりながら一緒に作業した。

ケーキ焼くときにお手伝いすると、兄と弟には内緒でボウルに残ったクリーム食べさせてくれたりしたのも良い思い出。

この絵本私も持ってます。ホットケーキができるまでの行程が可愛い絵で描かれてるんです。これ見ながらホットケーキを作る…私したことない^_^;
確かに子供喜びそうだよね。やってみよう。
この絵本↓
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日曜の朝、家族みんなでダム湖の散歩してたの覚えてる。
鳥の名前や花の名前なんかをたくさん教えてもらったのが嬉しかった。

ホントささいなことなんだけど、
そこらへんで寝入っちゃったときに
「もー寝ちゃってー」みたいな感じで
そーっと布団とか毛布とか持ってきてかけてくれたこと
ウトウトしてるときだから意識はあって、覚えてるんだよね
今自分が子供に布団をかけてあげるとき、いつも思い出す
そして気づいたんだけど、
こういうことって、された方はうれしいのはもちろんなんだけど
してる方も幸せな気持ちになるんだね

超プチプチでふつうの家庭の人からしたら当たり前のことなんだけど、うちは自営業で、日曜は営業日。参観日も運動会も、両親とも来れなかった。
でも、たまに仕事の都合をつけて母が来てくれたのは本当にうれしかった。
父は仕事の鬼、ていうかたぶん発達障害があってルーチンワークを崩せない人だったんで一度もこなかったけど、子供は大好きで早く仕事が終わった
ときには力のいるダイナミックな遊びをしてくれて、嬉しかったな。

幼稚園の頃、楽しみにしてた遠足が雨で中止になってしまい拗ねてたら、お母さんがお弁当作ってくれた
子供ってお弁当ってだけでテンション上がるから、それだけでも嬉しかったのに
今からお母さんとピクニックごっこしよう!と、ピクニックで使う折り畳み式の机と椅子を縁側に広げてピクニックごっこしてくれて、お昼に2人でお弁当食べた。
その後おやつにアイスクリームを食べて、すごく嬉しくて楽しかった
ささいな事だけど、これが一番嬉しかった事だなぁ

あれから30年も経ったけど、今でも雨の日に家にいると幸せな気分になる。

幼稚園の時。
お友達とバイバイした後、1人で歌なんか歌いながら楽しく歩いて帰る途中、お母さんが走って迎えに来てくれたこと。

うちは共働きだったのですが、当時、母は時短勤務で働いてました。
けれど多少の残業や通勤時間もかかるので、私が帰る頃に間に合わないことも多くありました。

その日も遅くなったのですが、母は駅からダッシュで家に戻り、私がまだ帰宅してなかったので幼稚園までさらにダッシュしてお迎えに来てくれました。
その時母はダッシュしたからか汗だくで「あ~良かったぁ。遅くなっちゃったけど間に合ったぁ!」と私を抱きしめてくれました。

なんか嬉しくて忘れられないデス

私が物心つく前に両親離婚して母子家庭だったんだけど、
父はパチンカス・サイマー・仕事続かない典型的ダメ夫だったらしい
そのことで母は仕事して借金返しながら乳幼児の私と兄を育て、
6枚切りの食パンで1週間を過ごすような生活をしていたと祖母から聞いた

そのことを知って、
「結婚したこと後悔してる?」って何気なく聞いたら
「してないよ、あの人じゃなかったらアンタとも●●(兄)とも出会えなかったもん」
と言われたのがすごく嬉しかった
後悔してるんだろうなーって思ってたのに。

旦那と喧嘩した時にこの台詞を思い出すと、
この旦那じゃなかったら娘に出会えなかったんだよなぁと思って
ちょっと怒りが収まるw

土日仕事で平日休みな父。小学校の頃一度だけ平日に参観日があって、父が大喜びでスーツできてくれた。何度も「行けて嬉しい」って言ってたのを覚えてる。
時々子どもたちを連れて夜のドライブに行ったりしてた。夜に外に出てるワクワクと車の窓から見える景色がきれいだった。

2年前に父は他界したので孫の顔は見せれなかったけど、息子が色々わかるようになったら写真見せて話したい。

母が毎晩本の読み聞かせをしてくれたこと
小学校低学年くらいまではしてくれてたと思う
小さい頃は絵本で少し大きくなると児童文学
長靴下のピッピとか、今も細かく覚えてる
遅くなってももっと読んでといって困らせていたけど本当に幸せな思い出だ

小さい頃、母親が寝込むことが何度かあった。二階の寝室でひとり寝ている
母親の様子を恐る恐る覗きにいった。母親がどこかへ行ってしまうような気
がして、恐ろしかったから。
そんな自分も喘息の発作で親の手を煩わせた。当時、我が家には車が無く、
病院までのあぜ道を、母親の背に負われていった。ねんねこ半纏に包まれ
母親の背を感じ、暖かくて幸せだった。
発作の前後の記憶も辛かったのも覚えていないが、背中の記憶だけは残って
いる。
あの恐怖感と幸福感がいつも同時に思いおこされる。

小さいころ、居間で寝ちゃうと父がお姫様抱っこで布団に運んでくれた。
嬉しくて何度も寝たふりしてた。
中学生のころに酷い反抗期で、人一倍世話をかけた。お父さんなんか嫌いって言った。
大人になって、いつかごめんなさいとありがとうを言おうって思ってたのに、急に病気で危篤に。
半月で亡くなってしまった。

危篤になってからは、とても謝罪も感謝も言えないよ。
もうアナタ死にかけてますって伝えるようなもんだから。
伝えようって思ってる人は、いつかじゃなくて今すぐ伝えて。
私みたいに10年経っても後悔してるようにならないでね。

小学校低学年の頃、私が何か悪いことしたんだろうけど叱られた
何をしたかはよく覚えてないけど母は機嫌を悪くして皿洗い
相当マズいことしたんだと気付いて、大泣きしながら「お母さんごめ゙ん゙な゙さーい」
母もちょっと泣いてた気がする
「お母さんも怒ってごめんね」
って言ってくれた
何でもないけど嬉しかった記憶。

このスレ見て、色んな意味で余裕がなくて邪険に扱っちゃってる子ども達に優しくしなきゃなって反省したわ。

私は、高校卒業するまではいい思い出なんてなくて親の事大嫌いだったけど働きだしてから毎朝早朝出勤だった私の送り迎えをしてくれた事にすごく感謝してる。

父がすごく厳しい人で、反抗期はたびたび大喧嘩して夜中家を飛び出した事があった。

田舎だから行くところもなくて、近所のコンビニで頭冷やしてたりすると必ず母が探しに来てくれた。

うちは自営業で、1日立ち仕事な上に重いもの持ったりして、痛い足腰を引きずって来てくれた。でも私はまだよくわかってなくて、泣きながらぐずぐず言って帰った。

真っ暗な夜道でお母さんを見つけた時の安堵感は今でも泣きそうになる思い出。

小学生になったとき、父が
「もう口で言えば分かるから、叩いて叱る事はしないからな」
といった事。
それまでも暗所に閉じ込められる程度だったけれど、
自分がひとりの人間と認められているのを感じて誇らしかった。

園児の頃、ドライブ中に気になる建物があり尋ねてみたところ
やってみたいスポーツの施設だった。
おねだりしたけれど、小学生になったらといわれ
遠方だった事もあり、いなされたと幼い心に感じた。
ところが小学生になったある日、始めさせてくれた事。
初日は何も知らされずにでかけたのだけど、突然目の前に施設が現れたときは忘れない。
願いが叶った事への喜びもあるけれど、
約束を果たしてくれた事が何よりも嬉しかった。
幼い頃から、個としての自分を認めてくれていた事を、何よりも感謝している。

うちはカップ麺とかジュースは子供には禁止で、父だけ食べて良いことになっていた。
子供はジャンクな味が好きなので当時は「お父さんだけずるい!」って思ってたw
父がカップ焼きそばとか食べてる時に「ひとくちちょうだい!」って言うとちょっとくれて、「おいしー!」って言うと笑っていた。
今思えば良い食育だったと思う。カップ麺は今でも好きなんだけど月1くらいでしか食べない。

実母じゃないけど
訳あって母子な上に実母が私をほぼ放置、それを見かねた母の姉家族がほとんど私を育ててくれた。

ママパパと呼んでいるけど、小学生になって毎日のようにおねしょしてても嫌がらず一緒に寝てくれてたパパ
座椅子の上でいっつも抱っこ抱っこって抱っこしてもらってた。これが大好きで嬉しくて幸せだったの今でも忘れられない

わらび取りやイナゴ取りにママとよく山や田んぼに行ってたな。すごい覚えてる

思春期にその家族とも離れ離れになったけどパパママに愛情たっぷりもらったから
そこまでグレずにすんだんだと思う

母の持っている古い持ち物の話を聞かせてもらうのが好きだった。

この帯はおばあさんの丸帯だったけれど、娘二人のために二枚に切って袋帯に仕立てたんだよ。
だから○子おばさんのところにも同じ帯があるんだよ、とか
この指輪とペンダントはひいおばあさんの珊瑚玉のかんざしを二つに割って作ったものなんだよ、とか。
こっちの指輪はお母さんが二十歳になった記念のものなんだよ、とか。

お母さんもおばあさんにこうやって話を聞かせてもらったんだろうな、って想像していると
自分の系譜というか命がずっと続いているということを子供ながらにとても意識した。
大げさに言うと愛されてる実感だったのかも。

大学を3つ受け、滑り止めにしか受からなかった。
父は浪人してでも第一志望に行って欲しかった。
自分は勉強をこれ以上したくなかったので、無理やり行かせてもらいました。

最後まで反対されたけれど、実家から離れる時に
『しっかり勉強してこい。でも、もしも失敗だったと思ったらいつでも帰って来い。いつでもやり直せるんだから。』
と言ってくれました。もう25年以上前の話し。

それから実家からずっと離れた名古屋⇒静岡と仕事をしてきましたが、
妻に死なれ子供と二人で実家に帰ってきたのは今から4年前です。

親との同居というのは色々大変で、ぶつかる事も時々あるけれど、
今でもその当時の事は忘れていません。ありがとう。

私、高校生のとき、母と離れて親戚の家で暮らしていた。
どうしても親戚になじめなくて、辛くて・・・。
自宅に帰ってきて、翌日親戚の家に戻る、自宅で過ごす最後の夜、
眠れなくてじっと暗い天井見ていて耐えられなくなって
「嫌だ」ってつぶやいてしまった。
そうしたら、隣で横になっていた母が「(母さんがいるから)大丈夫だよ」って言ってくれた。
母は寝ていたと思っていたから、とても驚いた。

いつもこうやって見守ってくれていたよね。
私に注いでくれた温かな眼差し、絶対に忘れないよ。

嬉しかったことなんか、物とかそんなんじゃなく、ただ手を繋いで他のお母さんとおなじふうにしてくれたことだけ。
それ以外が破天荒すぎて…
さんさんタウンというとこがあり、休みに母がさんさんタウン行こうか!と言ったら飛び上がるくらいうれしかったのを覚えてる。
行ったら必ず3000円までで好きなおもちゃ買っていいよっていわれた。
でも母子家庭でお金がなんとなくないんだろうなと気づいていたから、いいよって言った。いらないって。
弟はそんなこと気にせず3000円嬉しそうに選んだ。
自分は6歳だったがすでに上記のように考え遠慮し、遠慮しない弟をにらんだりしたやっかいな子供だったな。
母に、だってうち、お金、ないんやろ?やからええねんうち。って言ったときのかなしそうな顔がわすれられない。
多分弟が正解だったんだよね。
子供ははやくからいろんなことわかってる。
だから我が子にも誤魔化しや嘘はつかないときめてる。

基本スパルタ体罰のヒス母だったけど、
いじめられた時、ちゃんと向き合って話しを聞いてくれたり、
「みんな大人になったらしなくなるよ」とかアドバイスをくれたことが
心強くて嬉しかったかな。
あと、初めて親元を離れる臨海学校の時に、
ヨックモックの細長い缶に色んな種類の飴を詰めて持たせてくれた
(すごいセンスで恥ずかしかったけどw)
同室の子に勝手に食べられたりしたけど、配ったりもしたっけ。
子を思う泥臭いいじらしさが、今思い出しても泣けてくる。

何がきっかけだったか覚えてないけど、
小学生くらいの時に『あらあら、この子は仕方のない子ね~』って
言いながら布団かけてもらうのが好きだったな
今は旦那(47歳)にしてもらっている私(36歳)w

お母さん、天国にいっちゃって寂しいよ
もっと一緒に年を重ねたかったなぁ

私の最後のお漏らしが小学校2年生の時。それまで何年かはおねしょしなかったのに、なぜかその日はしてしまった
「お母さん、おしっこもれちゃった…」って泣きそうになりながらおそるおそる言ったら、
「…あらあら、どうした?寝る前にトイレ行ったのにねぇ。おかしいねぇ?いいよ、大丈夫だよ。お母さんが洗っておくから、顔洗っといで」
って言って頭撫でてくれた
怒られると思ってたから怖くて恥ずかしくて、どうしようどうしよう!って思ってたから、大丈夫だよって言われてすごくホッとした

それからおねしょはなくなりました

父が段ボールでロボットを作ってくれた。
自分で着てロボットになれるようなやつ。
アルミホイルを全体に貼って、お腹にメーターみたいな絵を描いて、頭にはアンテナも付いてた。
目の部分に穴が開けてあって、そこから見える目だけでもすごく嬉しそうな表情した私の写真が残ってる。

受験の時、母が『好きなもの絶ち』して合格を祈ってくれてた
(願いがかなうまで、自分の一番の好物を食べないおまじない)
私は全然知らなくて、きょうだいが後日教えてくれた
結局不本意な結果しか残せなかったけど、親の真心は有難かった
そんなふうに我が子も育てたい

小学校低学年くらいのときだったと思うけど、母がちょっとした嘘をついた
(仕事だからと一晩祖母の家に預けられたが、実は同窓会に行ってた)
翌日、祖母の不用意な発言から私は母の嘘を知ってしまったんだけど、
そのときに母が「嘘をついてごめんなさい」と真摯に謝ってくれたことをはっきり覚えている

私も、自分の子には適当なごまかしや逆ギレはしない
…「嘘をつかない」とは言わないけどw

中学生ぐらいの時に、父がぐでんぐでんに酔っぱらって帰ってきた
私が「仕方ないなー」と多少ぷんぷんしながら父の布団を敷いていると
父がそのへんに寝ころびながら「お父さんはねー、○○子達の事を愛してるよ!」と言った
思春期だったし恥ずかしくて「はいはい」って流したけど凄くうれしかった
家族に愛されているという実感が持てたのは自分の自信にも規範にもなったと思う
大学生の時彼氏に言われた「愛してる」よりも何倍も幸せな記憶だ、不思議なことにw

自分は休みの度にお弁当を持って家族で出かけるのも、普通だと思ってた。
大きくなって、やりくりがキツくて外食は頻繁にできないので、お弁当を作ってたって聞いた。
サービスエリアで食べる時も必ずおにぎり等を作って行ってたのは、おにぎり分お腹が満たされて沢山買わなくていいからだとwww
確かに子供3人共、ギャル曽根並みに食べてたわ。
でも今思い出すと、外食よりもその手作りのお弁当が一番美味しかったし、疲れててもあちこち連れて行ってくれたのは嬉しかった。
今、弟が父と同じように家族サービスに励んでいる。

母には寝る前に色んなキャラクターになりきるごっこ遊びを毎日してもらったな~。寝るときは必ず手を繋いで寒い日は足を太股の間挟んで。
普段は口も悪くてきつい口調だけど、弱気になってたり、ふとした時に愛情を示す言葉をくれる。

私の誕生日は夏休みなのでおめでとうを言ってくれる友達はいなかったけど、単身赴任の父は私の誕生日に毎年必ずおめでとうメールをくれた。
私が携帯を持つようになった年から、嫁に行って子どもを産んでもずっと。
年をとることよりも父の一言のおめでとうが嬉しい。

アルバムを作ってくれたのが嬉しかったな。

表紙に『(私)ちゃんのおいたち』って入っててさ。
両親からのメッセージも書いてあって。
写真それぞれにコメントも入れてある。
大人になって見返しては、じんわり嬉しい気持ちに浸ってる。

だから、我が子にもアルバム作ってるよ。
今は赤ちゃんだけど、いつか喜んでくれたら嬉しいなあ。

私はお絵描きが好きな大人しい子だったので、洗濯や料理をしている母の近くでお絵描きをしている時間が好きだった
出来上がりを見せると必ず褒めてくれて、いつもニコニコ優しい顔の母の近くにいるだけで毎日満たされてた気がする。
休日に出掛けたり長期休暇はキャンプや旅行も連れて行ってくれたけど兄弟が多かったから母と2人っきりで家にいる時間が一番好きだったな。
無理して出掛けたり予定詰め込んでまで遊びに行くより、毎日穏やかに接する事の方が大切なのかもしれない。

自分は子供の頃、食が細くて体も弱かったんだけど、熱を出す度におかゆや耳を取ってお砂糖をかけて一口サイズに切ったトーストや茶碗蒸し等、食べやすかったり好きな物を色々工夫して作ってくれた。
自分もすっかりBBAになったのに、今でも実家へ行くと好物ばかり作ってくれるので、涙が出る程嬉しい。

うちの母は出版関係の仕事をしてるんだけど、
母が仕事で書いた文章の中で「いかにわが子(=私)が大切で可愛い存在か」
ってのを綴った箇所があって、母が留守の時になんとなくそれ読んで
嬉しくて泣きそうになった。小学生の頃。

日ごろから「○○ちゃんは大事な子だよ」と表現しまくってる母だったし
自分も母親に愛されてるのは十分わかってたんだけど。
なんていうか、自分宛じゃない文章の中で
大人が仕事で使うときの言葉使いで
母がそういう事を語ってたのが、日常とは別格の感動だった

「子供がキライだから仕事に逃げた」とキッパリ言うような母だが、
すごく感謝していることがある。
「あんたはいざとなったら、すごい底力を発揮する子だ」
と暗示をかけ続けてくれたこと。

本当は母に褒められるのが嬉しくて、必死で頑張ってたトコもあるけど
半分は本気で信じてた。
「自分はいざという時にはできるんだ」と。
・・・正直、今は怪しくなっているがorz
もうすぐ引越しなのに、やる気わかねえ

髪の毛を誉めててくれた事
天パ、地毛が茶髪、猫っ毛、一日で物凄く絡まるっつう中学辺りで確実イジメの的になるような髪質なんだけど嫌いじゃない

髪の色で苛められたし陰口叩かれた
それでも「アンタは綺麗な髪だねぇ」って言ってくれたからコンプレックスらしい物は何も抱かずに済んだ

まあイジメっつっても机やら物やらを離されたり捨てられたり、後キツいやり方だと先生来るまで教室に入れて貰えなかったりしたくらいか
まあそこの心理理解出来なかったし他人は他人自分は自分で育ったから気付いたのが卒業後なんだけどもww

同窓会でイジメしてきた奴らにまた「まだ染めてるんだけどあの子」ってクスクスと小言で言われたのはビックリした

そしてホッコリした
変わらないなあどいつもこいつもってさ

「良いだろー、父さんに癖毛貰って母さんに色貰ってこんな風に産んでもらったんだ」

ホッコリ気分でそいつらに自慢したら何か男子が寄ってきて髪の毛触り散らされたw
ふざけてたらそいつら何故かばつが悪そうな顔してたから頭撫でたった(キリッ

父さん母さん、素敵な髪を有難う
私の誇りです

小学生の頃、真夏の夜うちわであおいでくれていた事。母も蒸し暑かっただろうにずっと私に風を送ってくれた。実は途中で目が覚めていたけど、嬉しくて寝たふりをしていた。そしてまた満たされた気持ちで眠りについた。

自分が嬉しかったのは、ほぼ毎日手作りおやつ作ってくれたことかな。
シュークリームやら当時めずらしかったティラミスやら凝ったのも作ってくれた。
特にいちごのババロアが大好きで、5月の誕生日には毎年作ってもらった。
友人たちにも好評で鼻が高かったなぁ。

いま子供は4歳なんだけど、先日幼稚園の友達が遊びに来てくれた時、
フルーツゼリーを手作りして出した(といってもゼリーの元とかしてフルーツ入れただけw)。
そしたら友達が帰った後、子に「ゼリー作ってくれてありがと」と言われた。
そんな大層なものじゃないのに。
今は手作りしなくてもなんでも手に入る時代だけど、
子供が小さいうちは親の手作りのものって大事なんだなと思う。

一才下の従姉妹がしょっちゅう家にきてた。
うちの親をパパ、ママ、うちの兄姉をお兄ちゃん、お姉ちゃんと呼んでた。
でも、俺だけは名前呼びだった。

毎日来ては俺が食事する席に座り、俺の誕生日にはプレゼントを買い与えられて、家族で出掛ける時も必ずついてきた。

明らかに自分を排除をしようと動いていて、家族も従姉妹を大事にしてた。

今思えば親戚といえどよその子だからという理由なんだけど、当時は俺は自分はいらない子なんだなとへコんでた。

そんなある日、昼食をとってた時に俺が食事を残した事があったんだけど、その残りを母が勿体ないからと食べた。
それをみた従姉妹は急に箸を置いて「お腹一杯になっちゃったからママ食べて!」って。

勿体ないって言ってたし食うんだろうなって思っていたら、母は「よその子のは食べられない」って言った、それを聞いて泣いて駄々をこねた従姉妹を見ても決して食べなかった。

凄く些細な事だけど滅茶苦茶嬉しかった。

遠足の日、おかずだけ持っておにぎりを忘れてしまったことがあった。
学校に着く前に、母が追いかけて持ってきてくれた。
「おかずだけだとお腹空くでしょう」
って笑ってた。

忘れ物したのは自分なのに怒りもせず、妹をおぶって急いで来てくれて、すごくうれしかった。
胸があったかくなったなあ。

就職して、朝食も夕食も外食していたころ、フルタイムパートに出ていた母が
毎日お弁当を作ってくれた。
今、母の年齢になってそれがどれだけ大変だったか気づいた。
今の自分にはできないことだ。

子どもの頃、寝る前に絵本や本を必ず読んでくれた。
学生時代、ずっとお弁当を作ってくれた。
ちゃんと手を止めて、私の話にいつも耳を傾けてくれた。

自分が母になった今、我が子にもそうしてあげたいと思うけど、なかなか難しい時も多くて、申し訳ない。

4、5歳くらいの頃。
近所に犬を放し飼いにしている家があった。
外で遊んでたらその犬が寄ってきちゃって、「もう駄目だ、怖い!!」と固まってたら、
母が助けに来て抱き上げてくれた。
下から吠えかかられたけど、母につかまってたら大丈夫だった。
あの安心感と言ったら、言い様がない。
実は母も犬が苦手なんだけど、身を呈して庇ってくれたんだ。

ちなみに後日、犬は飼い主もろとも、苦情を受けた大家さんによって退去させられたそう。
もう30年前の話。

具体的ではないけど、感情的に怒りをぶつけられたことがないこと。
うるさい!とか、いい加減にしなさい!とか、馬鹿!とか汚い言葉を言われたことがない。
自分が子育てして初めて、これがすごいことだと分かった。

幼稚園の頃、なんだかわからないけど突然
「両足で歩いたら疲れるし、片足づつで歩いたらもう片足が休めるんじゃないか?」
とか考えた。
で、次の日は幼稚園で一日右足だけを使い、左足は引きずっていた。
また次の日は逆に…。

そうしたら幼稚園から家に「娘さんは、もしかして小児麻痺ではないか?」と連絡がいったらしい。
家では普通にしていたので、母はハァ?と思いながらも仕方なく精密検査に連れて行ってくれた。
当然何も異常はない。
怒った看護師さんに「なんでそんな歩き方してるの?」と言われて「楽そうだったから…」って涙目で答えた私に母は
「いいよ、何でも納得行くまで試してみれば」と笑った。
お金かかっただろうに、阿呆な私を見守ってくれていてありがとう。

部活とか習い事とか勉強とか、自分が積極的にやりたがることは何でも喜んで応援してくれた
母は控えめで女らしいタイプだったのに対し、自分は気が強くて男勝りなタイプで、
扱いにくいことも多かったと思うんだけど、
「あなたはお母さんがなりたくて憧れてた女の子像そのもの、
お母さんはいつでも一番のファンだからね」といつも言ってくれた

いつもいいところを見て褒めてくれたから、
そんな母を悲しませたくない思いや、母の優しさを真似たい思いが強くて、
自然と人を傷つける言動をしなくなったり、自分を律することを覚えたと思う

小学生の時、クラスのお楽しみ会でプレゼント交換があった。
近所の手芸屋さんで買った手作りのヒヨコのヌイグルミを作ろうと思ったのに不器用でオタオタしてる私に見かねて、母が作ってくれた。
私の母だけあってちょっと不細工なヒヨコだったけど
もう嬉しくて可愛くて手放しなくなくて、結局「悪魔の花嫁 9巻」を出した。
あんときの同級生よスマン。

小さい頃、物凄く怒られてもその後は私を膝に乗せ、優しく諭してくれた母。
小学校高学年以降は無かったけど、心に焼きついてる優しい母の思い出。
現在2歳の息子にもそうして接するようにしてる。

小学校の家庭科で裁縫セット使い始めて楽しくて
一人でフェルトのマスコットを作った
結構良い出来で母に見せたら
うわー上手!あんた器用ねぇママは出来ないわ!って大袈裟に驚いて褒めてくれた
それが嬉しくて嬉しくて手芸大好きなまま大人になった

大人になってからその時の事を思い出して言ってみたら
子供が、大人の目から見てもすごく上手に作ったから本気で感心したんだって
やっぱり子供でもお世辞言われてるのか本気で褒めてるのか、分かるものかな
そして当たり前だけど褒められるとますます好きになるね

私も感情的な言葉を母から聞いたことがないな
愚痴や悪口などネガティブな言葉も聞いたことがなく本当に尊敬する

私がうれしかったのは毎日のお弁当
中学~社会人になって結婚退職するまで毎日家族4人分を早朝から起きて作ってくれてた
シンプルなお弁当だったけどたとえ寝坊しても「20分あれば出来るから待ってね」と

今日旦那が持って行き忘れたお弁当を自分の昼食にしながら、母へ感謝とごめんなさいを心の中で伝えた
頑張って作ってくれてたお弁当、何度か持って行き忘れたもので…

子供の頃嬉しかったのは、たまに作ってくれるお子様ランチ。
冷蔵庫・冷凍庫にある中途半端な残りおかずを盛るだけなんだけど
プリン型のチキンライスとか、上に立てた旗とか、ちっちゃいグラタンとか
ものすごくワクワクして嬉しかった。
あと、メロンソーダに丸いアイスを浮かべたクリームソーダも。
それから、めったに料理しない父が母の留守の時に作ってくれたサラサラのおじや。
鍋からお椀によそって、日本昔話みたい!って兄と笑いながら食べたなぁ。

いろいろ思い出すと、圧倒的に食べ物のことが多いw
母もよく自分の昔の話になると「あの時食べた○○が~」とか「初めて○○を食べた時の感動は~」とか
食べ物のことばっかり覚えてるから似た者親子なのかも。

私が思春期や成人してから人間関係の愚痴を聞いてもらった時に
「どこに行ってもそういう人はいる、気にする労力がもったいない、受け流すのが一番楽」
「他人の噂話や悪口・愚痴の会話には絶対に便乗してはいけない」
などを教わって、それ以来尊敬している

多分5歳くらいの時。
休日に家族で出かけることになったが、直前に行きたくないと駄々をこね出した私。
家族はなだめすかしたが、頑として動かない。
結局私だけ留守番することになった。
それまで一人で留守番なんてしたことなかったので、
親は心配して、お気に入りのアニメの歌のカセットとお菓子を置いて
「寂しくなったらこれ聞いて、食べるんだよ」と出かけた。

ガチャンとドアが閉まって、大好きな歌が流れる部屋に一人になった瞬間 号泣w
しばらく泣いてたら突然ドアが開いて、父が入って来た。
第一声は「やっぱり泣いてた亅
私、さらに号泣w
父はそのまま私を抱っこして、駅まで走ってくれた。
駅では母と弟が待ってて、出発のベルが鳴ってた。
みんなで電車に飛び込んだら、後ろでドアが閉まった。
その時の「ああ、よかった」という気持ちは今でも忘れられない。

子供なりに自分の馬鹿さかげんと親の優しさが身にしみた。

紙芝居。
母は本が好きで近所に来る移動図書に毎週通っていた。
私はかまって欲しいのもあって紙芝居をよく借りていた。

同じ話を何度もさせられて大変だったと思う…自分が本を読む時間まで捧げてくれていた。

ありがとう

高校受験の時に父が私の気持ちを解ってくれて、行きたい所を受けろと言ってくれた事。

中3の夏に大きなきっかけがあり志望校はやりたい部活のある2番手の高校にした。そこで部活しなきゃ私後悔する…と思う位衝撃な事があり、初めて必死で勉強、そしたらビックリする位成績上がりトップ高も余裕?までになった。

そしたら母がトップ高にしろとしつこく言い出し、私の考え話しても聞いてくれなかった。そのうち最後の三者面談になり学校行ったら父が来ててビックリした。父は担任に「迷ってる様子ですが私は本人の行きたい所を受けさせます。」笑顔で終了。
私がどんな思いで頑張って来たのか解ってくれ、世間体は関係無く子供に任せてくれたのには感謝した。それまで汚いとか嫌ってたけどそれからは父を尊敬してる。

するべき注意やアドバイスはするが、余程の事以外は見守る。ここぞと言う時に的確で背筋が伸びる事を言うから、きちんとしなきゃと思えた。親となりその難しさは実感してる。

子供の頃歯の矯正を受けさせてくれたこと
小学6年まで毎日歯磨きしてくれたこと
おかげで虫歯が一本もなく、芸能人並みの歯並びになった

あと、中学の時腋臭の手術を受けさせてくれたこと

当時はうるさいって思うこともあったけど
私の体や悩みを誰よりも気遣ってくれてたんだと思う

私も矯正受けさせてもらった。

最初は「出っ歯だというけれどそんなに目立たない」ってスルーされてた。
15歳ころだったか、初めて買ったファッション雑誌が「初めてのメイク特集」で
何度も何度も読み返している私に「どんなに綺麗に化粧しても歯並びはごまかせない」と気づいたって話してくれた。
口元を目立たせたくないから、とアイメイクばかりチェックしている私に驚いたとか。

矯正した後はひどい肩こりと偏頭痛が治ってとても活動的で前向きになれたし
なんだかんだ言って私のこと見ててくれてるじゃん、と反抗期もほどほどで終わった。
(兄も弟も理由は違うけど不登校で、優等生の私は放置気味だった。)
もうアラフォーだけど「歯並び治した後、ぜんぜん肩こりないんだよね」と言ったら母が嬉しそうな顔したので記念カキコ。


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